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東芝さん、どうか土光さんを思い出して欲しい

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業では、大きく体質転換をしようとするとき、
会社トップを交代させることが多いですね。

新しいトップのリーダーシップによって、
組織が劇的な変貌を遂げる、そんな例はよく見受けられます。

「荒法師」とか「ミスター合理化」と呼ばれた土光敏夫さんは、
石川島播磨重工業の社長を経て、昭和40年、東芝の社長に迎えられました。

当時の東芝は、実質上の破たん状態に陥っていました。

土光さんでなければ、東芝の再建は不可能とまで言われていたのです。

というのも、名門意識や驕りが会社の空気に蔓延しており、
役員ら経営陣すら危機感を自分のものとして捉えていなかったのです。

土光さんは、就任早々の訓示でこう語りました。

「経営の責任は社長にある。社長が偉いわけでも大きいわけでもない。
 ただし、己の持ち場でひたすら働く者を尊重したい。
 社員はこれまでの3倍頭を使え。重役は10倍働け。
 君たちだけを置き去りにはしない。自分はそれ以上に働く」

土光さんはそう宣言し、その宣言通り誰よりも働きました。

まず土光さんは必ず7時には出社しました。

会社の始業時間は、午前9時から夕方5時までです。

朝の7時から始業時間の9時までは
「誰でも自由に俺の部屋に入って来い」と言って、
社長室をオープンにしました。

ここのところは、田中角栄氏が新大蔵大臣に就任した時と同じです。

角栄氏も、大蔵官僚への最初の挨拶の結びでこう言いました。

「一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。
 われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。
 何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。
 できることはやる。できないことはやらない。
 しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上。」

さて、土光さんですが、実際に役職のない平社員でも、
ドアを開けて入って来れば、大真面目に話し合いました。

土光さんは自分が早朝出勤しても決して部下には強制しませんでした。

しかし、社長が7時に来ているのに、
部下たちが9時に出社するわけにはいきません。

自然に重役や幹部社員の出社時間も、
1時間ないし2時間近く早まったと言われます。

土光さんは自ら率先垂範することで、
東芝から「重役時間」を追放してしまいました。

トップの交代で、組織が「一気に」変化するのではなく、
トップの行動で、少しずつ部下の心に変化が生じるのでしょう。

役員の心が変われば、これまたその部下にも、
少しずつ、変化のさざ波が起こります。

そうやって、ある一定時間の初めと終りを切り取り、
振り返って見れば、大きな組織の変貌が明らかになるのでしょう。

 
社長に就任して間もない時、
ある専務が「石川島の造船所をみたい」と、土光さんに言いました。

「よし、今度の日曜日にボクが横浜造船所を案内してやろう。
 朝9時に、造船所正門の前で待っている」

その専務は、東芝の社用車を自宅に呼んで現地へ向かいました。

ところが、その専務は自分の甘さを省みることになったのでした。

土光さんにとっての自然な行動が、
無言の圧力でその専務を反省させたのです>>>

光さんの行動です。

土光さんは、一足先に自宅からバスと電車で造船所に着き、
造船所の門の前で待っていたのです。

専務は、
「石川島の造船見学も、仕事のうち。
 まして日曜日に出かけるのだから、
 会社の車を使って当たり前」
と考えていたのでした。

ところが土光さんは違いました。
「ボクは、石川島の役員も兼務しており、
 造船所に行くのは仕事といえるかも知れない。
 しかし、今日の工場見学はあくまでも個人的なもの。
 私用なのだ。
 そんなことに、会社の車を使ってはならない」
と判断したのでした。

公と私についての、このセンスの違い。

前任の社長は、11時に出社するわ業者からリベートはもらうわで、
役員の思考も社内のムードも腐っていたのでした。

専務の公私混同も、少し前の会社の環境ならば、
自然な行動に過ぎなかったのです。

これを知った東芝の全役員は、
土光さんの公私の峻別を目の当りにして震え上がったそうです。

以来、公私混同をしていることの多かった東芝の社風が改まりました。

役員の専用車も合理化しました。

「重役が乗らないときは、部長に使わせろ。
 一日に一時間も乗らないのに、一台あてがう必要はない。
 そんなことをするから、公私混同するのだ」

土光さんの裏も表もない徹底した公私混同のない姿を見て、
もはや誰も後ろ指を指す人はいません。

社長の姿を見て、勝手に合理化は進んでいきました。

業績は回復して行き、やがて土光さんは東芝の黄金時代を築いていきます。

現在の東芝は、はっきり申し上げて、
いつか来た道のように、ダメな会社になろうとしています。

外部から逆風の激しい昨今でしょうが、
やはりここは、本来の姿を取り戻すべく、
激励の「喝!」の意味で、土光敏夫さんの記事を引っ張り出しました。

小泉進次郎氏の借り物でない挨拶の言葉です

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民党、いま、色々ありますが、
小泉進次郎氏は、相変わらずの人気です。

なぜ彼の人気が高いのか、この挨拶にあるように、
いつも自分の言葉で話す習慣を持っているから、
というのも理由のひとつでしょう。

陸上自衛隊(高等工科学校)卒業式での小泉進次郎氏の挨拶です。

———————————————–

219名の第55期の皆さん、卒業おめでとうございます。

また、ご家族、保護者の皆さん、教職員、保護者のみなさん、
教職員、学校長をはじめ、多くの関係者の皆さんに対しても、
ご卒業お喜びを申し上げます。

私は1年前の卒業式のことを忘れることができません。

3月13日でした。

震災から2日後、同じこの会場で卒業式が行われました。

卒業式の間、保護者の皆さんが持っている携帯電話が鳴り、
大きくはなかったですが、地震の揺れを感じました。

誰もが震災の2日後で、まだ緊張感を持っている。

そういう卒業式でありました。

おそらく卒業生の皆さんは、今の在校生が座っている席に
座っていたと思います。

そして去年は、保護者の席がいくつか空いてる席がありました。

震災の影響で、お子さんの卒業式に駆けつけることが
出来なかった、多くの保護者の皆さんもいらっしゃいました。

そのことを考えた時に、今日このように、
多くの方が一同に会して219名の皆さんの卒業を
お祝いできることを、私も心から嬉しく思います。

横須賀で生活をしていると、
色々な場面で本校の生徒さんとお会いする機会があります。

震災後、横須賀中央駅の前で街頭募金をやっていた時に、
生徒さんの何人かが募金をしてくれたことを
今でも覚えています。

皆さんが外出を許されて、横須賀で遊んでいる時に
たまたま会って、私が、
「高工生でしょ?」
そう言うと、

「何でわかるんですか?」

「雰囲気で分かるよ」と、
そう言って笑いあったことも覚えています。

私は皆さんを見ると、

「これからの自衛隊、これからの日本は大丈夫」

そういう希望を持ちます。

特に、東北の被災地の皆さんは、今回の震災を機に、
どれだけ皆さんに対して感謝の念を持っているか、
希望を感じているか。

卒業生の皆さんの中で、まだ一度も被災地に
足を運んでいない方がいたら、是非、機会を見つけて、
自分の目で、自分の肌でそれを感じてきて
いただきたいと思います。

昨日、午後2時46分、
多くの国民が、また世界中の人が黙とうを捧げました。

私は宮城県の女川町の式典で黙とうを捧げていました。

皆さんの先輩である、陸上自衛隊の方は、
南スーダンのジュバで、現地時間の朝8時46分、
日本の東北の方角を向いて黙とうを捧げていました。

この震災で皆さんの活動が評価され、
期待がかつて無いほど高まっている。

喜ばしいことではありますが、同時に、
期待というのは、評価というのは、
積み重ねることが大変だけど、それを失うときは、
あっという間でもあります。

どうか、これから未来の自衛隊を担う皆さんは
自信を持って、今まで築き上げた自衛隊の評価、
そして高等工科学校の歴史、これらを受け継いで、
胸を張って自信を持って活動をしていただきたいと思います。

皆さんもおそらく子供の頃、夢があったと思います。

私も夢がありました。

当時はプロ野球選手になりたかった。

今ではまったく違う世界にいます。

皆さんもそうかも知れません。

今、自分が自衛隊の道に進む。
それを予想していなかったかも知れません。

今、被災地の子供たちの中で、

「夢は何ですか?」

「将来、何になりたいですか?」

そう聞いた時、その答えの中に皆さんの姿があるんです。

人の命を助けたい。

困った時に、人の役に立つために自衛隊になりたい。

そういう、日本の将来を担う世代が出てきている。

その人たちに恥じることの無いような自衛隊の姿を、
これからも見せていただきたいと思います。

私たち政治家は、皆さんに恥じることの無いよう、
政治の信頼を高めていくための努力を
最大に努めて参ります。

最後に私がひと言申し上げたいのは、
自衛隊の道をこれから選ばなかった、5名の
依願退職をされる皆さんに対してです

 

は、その5名の皆さんの両肩に担っている使命、
これは非常に大きいと思っています。

多くの国民は、高等工科学校という存在を知りません。

皆さんのような年で、これだけの日々を、
厳しい訓練を乗り越えて社会に出る、
そんな皆さんの存在を知りません。

皆さんの存在を、社会に届けてください。

この本校で学んだことをこれから民間の世界で生かし、
活躍される5名の皆さんは、3年間学んだこと、
そして同期がこれからも自衛隊で頑張る姿を、
多くの出会う人々に伝えてください。

それが皆さんの役割です。

それを思うと、これからの自衛隊の道を進む方、
そしてそうではない方、
私は両方とも大きな意義があると思います。

これからもこの横須賀に住む者として、
地元に高等工科学校があることを誇りに思い、
感謝をして、皆さんの活躍を応援していきたいと思います。

最後になりますが、今後の皆さんのご活躍、そして任務中、
またこの社会の中でご健康とご多幸を祈念して、
卒業のご挨拶と代えさせていただきます。

本日は、誠におめでとうございました。

———————————————–

通り一遍でない小泉進次郎氏の挨拶。

彼は将来の政界中枢を担う存在になろうかと思いますが、
これから一皮も二皮もむけ、
より大きい政治家に成長してもらいたいと思います。

今、ニッポンは嫌われてる?好かれてる?

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、政治の世界では、日本は韓国や中国から嫌われたりなど、
いろいろありますが、多くの国々から日本は好かれてる方だと思います。

おおむね真面目で律儀に約束を守り、
自分中心じゃないところなどが、
好感をもたれるところじゃないでしょうか。

日本が国際化に進出した明治の頃から、
すでに海外のニッポンファンの種はまかれています。

たとえば、日本VSロシアの戦いの時。

明治の日本が、国の存亡をかけて戦った日露戦争です。

日本海海戦で日本はみごとに勝利を収めたものの、
それ以上戦い続けるのは、国力の面から無理な状況でした。

大国ロシアもプライドがありますから、
局地戦では負けているものの強気の姿勢は崩しません。

そんな時に戦争を終結すべく、当時のアメリカの大統領、
セオドア・ルーズベルトが間に入ってくれることになったのです。

これはポーツマス条約と呼ばれています。

1905年、アメリカのニューハンプシャー州にあるポーツマス近郊で、
日本全権の小村寿太郎とロシアの全権大使の間で調印が行われます。

アメリカのとりなしに感謝した小村寿太郎は、
1万ドルをニューハンプシャー州に寄付します。

「州内の慈善事業に使っていただきたいと思います」
という手紙を添えて。

すると、対抗上、ロシアも同額の小切手を寄付しました。

結果、「露日基金」という名前で同州に残りました。

しかし、しばらくしてロシアで革命が起こりました。

その途端、支払をストップし、それ以降、
ロシアからの送金はありませんでした。

それでは日本はどうか?

実は日本も送金しませんでした。

同じ送金しない国でも、ロシアには何となくアンチの風。

日本には何となく好感のそよ風。

その違いはどこにあったのでしょうか?>>>

 

本が送金しなかったのは、

アメリカと戦争をしていた期間とその後の9年間だけです。

アメリカによる資産凍結、そして敗戦と、
とても支払ができる状況ではなかったからです。

しかし、その後の9年間は、滞っていた9年間の分を合わせて、
なんと倍の額を律儀に支払い続けたのです。

ちなみにその基金、いつまで続いていたと思います?

実は今もなお続いているんです。

もう100年以上もです。

名前は「露日基金」ではなく、
「日本慈善基金」に変更になっていますが。

もし、個人の間柄だったら、こんな友達に対しては、
絶対的な信頼を置きますよね。

信頼ってこんな時に結ばれるような気がします。

問題が起きていない時に、いい顔をするのは誰でもできます。

本当の信頼関係は、

『問題が起きたことではなく、

問題のあとにどう対応するか』 

だと思います。

そこで、誠心誠意尽くせたら、一生の絆が結ばれます。

英国BBC放送が33か国を対象に行った
「世界によい影響を与えている国」ランキングで、
ニッポンが世界でトップだったのも、
こういう姿勢の積み重ねの結果でしょう。

問題なんて、いつでもどこでも起こります。

起きた問題に対して、自虐的になる必要もないし、
鼻息荒くする必要もないと思います。

問題のあとにこそ、国や人の真価が問われる種が
仕込んであるからです。

ただこの例にあるように、僕らの先輩たちは、
ある一定の美学を確かに保有していた、
そのことを僕らは誇りに思っていいかと考えます。

「この苦しみから立ち上がることができない」と思っている人へ

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「これ以上辛いことはない」

「この苦しみから立ち上がることができない」

そのような絶望の中にあったとしても、

なお希望を見いだす人たちに、私は会うことができました。

それは、1部の人が起こす奇跡ではなく、

苦しんでいる私たち、誰もが、そうなる可能性を持っているということを教えてくれました。

人はただ単に苦しむのではありません。

その苦しみを通して実に多くのことを学んでいきます。

健康が当たり前であったときには気がつかないことを知るようになります。

それは、どちらかというと、目に見えないものです。

人の優しさであったり、

家族や友人の思いであったり、

道ばたに咲く花の美しさであったり、

命の尊さであったりします。

苦しみは、決して負の要素だけではありません。

苦しみを通してはじめて見えてくるものがあるのです。

~~~

出典

[苦しみの中でも幸せは見つかる]

小沢 竹俊 著

扶桑社より

衰弱して瀕死の犬がいた。それを見た女子★生が「うわっ!キタネぇ犬www」「道に飛び出してひかれないかな?」と言って…

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犬の散歩してたら近所のコンビニの駐車場で

衰弱して死にそうな柴犬と遭遇した。

汚れててフラフラで歩くのがやっとって感じ。
 
  
 
駐車場でたむろってる女子高生が

「うわっ!キタネぇ犬www」

「道に飛び出してひかれないかな?」

「それキモいし」

とか言って 騒いでたんで

ムカついて説教かましてやろうと近づいたら、

家の犬が女子高生の自転車にオシッコした。
 
  
 
女子高生が

「やぁー最悪なんだけどー」

「どんだけって感じだし」

とか 頭の悪い騒ぎ方でまくしたててきたので、

ウザいにもほどがあるな・・・

と困っていたら、
 
 
店から出てきた男子中学生2人組みが…
 
  

 
「なあ、犬ってなんで臭いものの臭いかいだり、

 ションベンかけたりするんだろな?」
 
 
「他の犬とかの臭いが臭いから、

 自分の臭いをつけてるんじゃない?」
 
 
「つまりブス臭を中和したと?」
 
 
「あまりのブス臭に耐えられなかったんだろ」
 
 
「犬GJ!」

とブス山さん達を馬鹿にしたあげく、

わめくブスをシカトして

コンビニで購入したドッグフードを

柴犬に食わせてた。
 
 
 
女子高生が文句言いつつ去った後に、

片割れが
  
  
「元気になるまで家で面倒みるわ」
 
 
と柴犬をダッコして帰った。
 
 
日本もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思いました。

出典元:http://kiji-share.com/ 
—————-

不器用だけど心が優しい少年ですね^^

ワンちゃん、いい飼い主に出会えて

ホントに良かったね><

 

引き寄せの法則 「起こること」にはすべて意味がある

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「悲しむ人々は、幸いである」と、西洋の偉大なマスターはいいました。

そして、東洋の偉大なマスターは、

「大きな苦しみのあるところには、大きな喜びがある」と断言しました。

いずれの言葉も、悲しみは教訓であり、

その人を清めてくれるものであるという真理を表しています。

悲しみは人生の終わりではなく―――

結果的には、世俗的な人生の終わりではありますが―――、

道に迷った魂を安全で平穏な場所へと導いてくれます。

悲しみの終わりには、喜びと心の安らぎが待っています。

強い信念を持って、真理を探しもとめましょう。

断固とした態度で、利己心と激情に立ちむかいましょう。

悲しみの季節は、人生のほんの一時期、あなたに与えられた試練なのです。

利己心がごくわずかでも残っているあいだは、罪の誘惑が襲いかかるかもしれません。

そして、妄想のベールが、心の目を覆いかくし、悲しみと不安を引き起こすでしょう。

しかし、魂に垂れこめる陰うつな雲の暗さを自分のものとして引きうけたら、

勇気をもって通りぬけ、その向こうにある、晴れわたった明るさのなかに飛びだしましょう。

自分に属さないものが、自分を襲うことなどけっしてありません。

詩人もこう詠っています。

いつであろうと、どこにいようと、海の底だろうと、空の彼方だろうと、わたしのものは、つねにわたしとおともにある。

人生の明るい部分だけが、その人のものなのではありません。

人生の暗い部分もまた、その人のなかにあるものなのです。

_______

「起こること」にはすべて意味がある

ジェームズ・アレン 著

引き寄せの法則」研究会 訳

王様文庫より

 

【深イイ】萩本欽一「損して得を取れ!」下積み時代の教え

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ほとんどの人は「損をしたくない」と思って生きていますよね。

だけど、そういう生き方をしていると、

自分でも気がつかないうちにずるくなったり、意地悪になったりしやすいと思うの。

だって今の世の中がそうでしょ?

みんなで得しましょう、

損をしたい人は勝手に苦労してなさいっていう仕組みになってますよね。

幸運もお金も人のあいだをぐるぐる回ってるんだから、

すべての人が一緒に得をするなんてありえないんですよ。

幸せになりたいと思うなら、進んで損をしたほうがいいの。

人とつき合うときは、率先して損な役回りをすると、だれかが幸運を持ってきてくれます。

自分のために損をしてくれた人がいたら、うれしくなるでしょ。

だから人間関係が円滑になるし、一緒に仕事をするときも信頼関係が早く結べるんです。

かといってなにか見返りを求めて損をしたり、

相手にとって負担になるような極端なことをしちゃダメ。

このあたりはバランスを考えて行動しないと運にならない。

僕の場合、なにか事を興(おこ)すときは必ず損から入ります。

これを覚えたのは、高校時代でした。

高校の三年間はいくつものアルバイトをしてたんですが、

いちばんうれしい思いをしたのは京橋の洋食屋さん。

なにがうれしいかって食べ物屋さんですから、

食材があまるとアルバイトにも食事を出してくれたんです。

ここでアルバイトをしたのは高校二年の夏休み。

僕と同時にあと二人、学生が雇われたんですが、

女主人はまず僕を見てこう聞きました。

「仕事は三つあるの。キャベツを切ったりカツを揚げる仕事。配達、皿洗い。どれにする?」

迷わず言いましたよ。

「僕、皿洗いにします」

ほんとはカツを揚げたかったけど、だれでもこれを選びそうでしょ。

だからあとの二人と険悪にならないよう、

いちばん人がやりたくない皿洗いを選んだんです。

店の主人にいいとこ見せよう、という気持ちもちょっとはありましたけどね。

で、皿洗いを始めたら、鍋底がみんな真っ黒。

店にあるタワシじゃぜんぜん落ちないの。

自分から選んだ仕事だったから、

これをどうにか落としてピッカピカにしたくてね。

自分で20円だして金属のタワシまで買って、いつもお皿と鍋をきれいにしてました。

このバイトは夏休みいっぱいの約束で、

最後の日にバイト仲間三人で帰ろうとしていたら、

「萩本君、ちょっと」って店主が奥から僕を呼びとめました。

行ってみたら、こう言われたんです。

「萩本君、よかったら卒業するまでうちで働いてくれないかい?」

ちゃんと僕のこと見ててくれたんだ、って思いましたね。

自分から損したり、一生懸命やってれば、

やっぱりだれか見ててくれるんだって、やけにうれしかったな。

自慢話みたいでいやだけど、

でも「損から入って一生懸命やろう」ってこのとき思ったのね。

どんなちっちゃなことでも損から入るといいですよ。

人のために自分の時間や知恵やお金を使うと

「睡眠時間が減る」とか

「頭が痛い」「心が痛い」「ふところが寒い」などなど、

いろいろな不都合があると思うのね。

でも、それぐらいは我慢しちゃうと、あとで運になります。

損のままで終わる人生ってないんです。

引用:萩本欽一
『ダメなときほど運はたまる』廣済堂新書