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お母さん、どうして泣いてるの?弟のせい?

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次男は”目の人”です。


生まれたばかりの次男の写真は、どれも二重まぶたのどんぐり目。

よく乳を飲み、よく泣き、よく眠る。

男の子にしては、手のかからない赤ん坊でした。

次男は耳が聞こえません。

とりたてて不自由とか不便ということはなく、ただ聞こえないだけ。

違うところは、日本語ではなく手話で話すということです。

そんな当たり前のことに気付くのにずいぶん時間がかかりました。

初めて聞こえないと分かったときは、
身も心もよじれんばかりに泣きました。

「子供の前で泣いてはいけない」と思いながら、
無邪気に遊ぶ息子の姿にこらえきれないときもありました。

アニメに夢中になっていた次男が振り向くと、いつも違う母の顔。

まだ二歳にならない次男は、不思議そうに母の顔をのぞき込み、
小さな手でほおの涙をふき取ります。

ところが涙は止まりません。

息子は大急ぎでティッシュを探し、
母の目からあふれ出る涙を一生懸命ふき取ります。

その傍らに、何も言わず、じっと見つめる長男がいました。

その表情を見たときに私はハッとしたのです。

「お母さん、どうして泣いてるの?弟のせい?
弟はお母さんを悲しませる子なの?」
と言ってるような気がしました。

「違う、何か違う!」

あの日を境に、私の目はすっかり乾きました。

あらゆる情報を求めて、昼間は本屋と図書館を駆け回り、
夜はパソコンとにらめっこです。

そして意外な言葉に出会ったのです。

「生まれたときから聞こえないから、聞こえないことがフツー。
手話で自由に話ができるし、不幸でも不便でもない。
だから、ひとつの個性として認めてほしい」

正直言って驚きました。

でも、何だかすんなり理解できました。それから二カ月。

次男の小さな手が話し始めました。

「おかし、ちょうだい」
「チョコレート好き」
「いーっぱい」
「ダメー!」

話しはじめの少ない単語の中に「ダメー」を見たときは、
「しまった!」と思いました。

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「○○しちゃダメ」「△△はダメ」

という私の”ダメダメ攻撃”の裏返しです。

ダメという前に「○○すると××になるよね。どう思う?」
と聞かなきゃいけない。

わかってるんだけど、忙しい子育ての中ではなかなか出来ないっ。

何しろ男兄弟は年齢に関係なく、朝から
【起きる→ケンカ→遊び→ケンカ→遊び→ケンカ→寝る】というのが日常。

母は、「ナニやってんの!何回言ったらわかんの!ダメでしょ!」
と怒鳴ってしまう毎日なのです。

人さし指で軽くほおに触れ、親指を立てると「お父さん」。

小指を立てると「お母さん」。

次男はすぐに「お父さん」と呼ぶようになりました。

もちろん主人は大喜び。

でもなかなか「お母さん」と呼んでくれません。

「お母さん」と呼んでくれない、
その理由がやっと分かりました

 

ある時、部屋の隅で次男がモゾモゾしています。

右手で左手の小指を立てているのです。

二歳になったばかりの息子にとって、
小指を立てるのはまだ難しかったのです。

添えている右手を離すと、左手の小指はすぐに曲がってしまいます。

何度か繰り返しているうちに、
次男は左手の小指を右手でギュッとつかんでほおに当て、
そのまま私のところに走ってきました。

「おかあさん!」

小さな手で呼んでくれた「お母さん」は、どんな大きな声よりも、
どんな流暢な日本語よりも、愛おしく頼もしく思えました。

そして、次男の手話は瞬く間に上達していったのです。

このころ「弟のために手話を覚える」と、
家族の中で一番張り切っていた長男の様子がおかしくなってきました。

「僕も聞こえなければよかった…」とつぶやきます。

弟に両親を取られたような寂しさがあったのでしょう。

主人と相談した結果、「長男と母だけの時間」を作ることにしました。

公園に行ったり、本を読んだり、映画を見たり。

一年以上かけて、かたくなになった長男の心は、
一年たった今、ようやく溶け始め、
自分の意志で弟と向き合うようになりました。

長男が生まれて七年、次男が生まれてから四年。

私は、この子たちから”人として一番大切なこと”を教わりました。

 

家族であっても、相手を思いやる心がないと、
その気持ちを理解することはできない。
相手を知って、相手を認めた上で、
人としての関係が成り立つのだということ。
今になって実家の母が言います。
「あの時、おまえは息子のことが不憫だったかもしれないけど、  
私には孫だけでなく”おまえ”も不憫だったのよ」と。
ここにも計りきれない親心がありました。
「おばあちゃんに千円もらっちゃった。僕お金持ちー。  
お母さんうらやましい?」 と少しだけ大きくなった次男の手が舞います。

「僕なんか、一万円も貯金があるんだぞ」 と少年になりかけている長男の手が揺れると、
「お兄ちゃん、ずるーい」とまたケンカの始まりです。

これから先、この子たちがどんなことを体験させてくれるのか?

ちょっと怖いけど、楽しみです。

参考URL:http://nakeru-story.net/archives/1770

【覗き込む父がいきなり泣き出した】

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自分がまだ幼稚園児の頃だと思うのだが、
夜中にふいに目が覚めると、
父が覗き込んでいて、いきなり泣き出した。
大人が泣くのを見るのは、
記憶の限りその時が初めてで、
しかも父はとにかく強くてかっこいい!と信じていたので、
凄く吃驚して変に印象に残ってる。
その後、何度か確認する機会があったが、
父がいつも
「夢でも見たんだろう」と言っていたので、
何しろ幼児の頃の記憶だし、自分もそう思うようになっていた。




が、20年以上の歳月を経て、父はついに白状した。
当時、とにかく忙しい職場に勤めていた父は、
朝は私が起き出す前に出勤。夜は就寝後に帰宅の日々。
寝顔をそっと覗き見るのが日課で、
このままでは娘に顔を忘れられてしまうと不安に思っていたらしい。
そんなある日、いつものように寝顔を眺めていると、
私が目を覚ましてしまった。
やばい、良く寝ていたのに、
ぐずってしまうかも知れない…父が焦っていると、
私が寝ぼけ眼のまま「おとーしゃんだ」と言って、ニッコリと笑ったらしい。
ろくに顔をあわせることもできず、
たまの休みにも疲れ果てて寝ていることが多い。
しかもこんな夜中に起こされて、
それでもこの子は自分の顔を見て喜んでくれるのか、
こんなふうに笑ってくれるのか、と思ったら、
愛しさが込み上げて思わず泣いてしまったらしい。
それがどうにも恥ずかしくて照れくさくて、どうしても本当のことが言えなかった。
嘘付いててスマン!と告白される結婚式前夜。
内心は萌えつつも、
明日目が腫れたらど-してくれる!!
と私が切れたので、笑い話になったが、
父が涙を流していたあの記憶は、私にとって良い思い出になった。

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男の不器用な愛情表現に

父親の哀愁を感じさせる話!!

「人生は一本道じゃない」

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<たった一言エピソード>
それが僕の心に残り、元気を取り戻すことのできる言葉です。
僕が小学6年生の時に、自分ではいつも仲がいいと思っていた友達が
急にまるで僕をさけているような行動をとり始めて、
僕が何度話しかけてもすっと無視されていていました。


僕が学校に来たときも、その友達が
「おい、アイツが来たぞ」
などと言われ、早足で去っていきました。周りにはだれもいません。
まるで白い目で見られているように感じました。

そんな小さな事が積み重なり、そのことで頭がいっぱいになって、
勉強にも集中しにくくなしました。

僕がかよっている塾で個人面談がありました。その個人面談でこの事を言いました。
そして塾長がいってくれた言葉が「人生は一本道じゃない」です。
「今からならまた仲よくなれる、まだ人生の道はたくさん作れる」と言ってくれました。
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心が解放され、軽くなる言葉です。

ゆえに重みと深みのある言葉だと思う。

人生は一本道じゃない

 

【バス乗ってたら、座ってた男性が叫んだ】

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突然・・・「よっっっしゃぁ!」


バス乗ってたら、

座ってた男性が小声で携帯に出て何か話した後、

結構でかい声で

「よっっっしゃぁ!」

と叫んだ。

車内のびっくりした目が集まったのに気付いたのか、

急に顔真っ赤にしてペコペコしながら

「すっ、すいません!妻が今、出産して…」

と。

するとバスの運転手さんが


おめでとうございます。


「わたくし安全運転、時間厳守を心がけておりますので残念ながら

スピードは出せませんが、おめでとうございます。

安全に、時間通り、お客様方、お父様をお運び致します」

と放送かけた。

男性の近くに座ってたお婆さんが

男性に話しかけてて

「おめでとうねぇ」

「ありがとうございます」

「子供は可愛いわよぉ。大事にしてあげてね」

と会話してた。
病院前のバス停に着くと、

男性は「すみません、お騒がせしました。ありがとうございます」

と運転手さんに言って、

こけそうになりながら降りてダッシュしていった。

いいもの見た。

 

 

メニューの漢字が読めない

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20年前ぐらいの前の話

当時俺の家はいわゆる片親ってやつで、すげぇー貧乏だった。
子供3人養うために、かぁちゃんは夜も寝ないで働いてた。
それでもどん底だった・・・

俺は中学卒業してすぐ働きに出た。
死ぬほど働いた。遊んでる暇なんてなかった。

1年ぐらいして同級生に久しぶりに会った。
飯食いに行こうって話になった。
メニューの漢字・・・読めなかった。
読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。
同級生は「焼きそばとごはん」って注文した。
無知な俺は「じゃあ俺はオムライスとごはん」って店員に言った。

 

オムライスとごはん

店員、固まってた。
クスクスって笑い声も聞こえてきた。
そしたら同級生
「さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」

・・・
店出た後、同級生が一言
「うまかったな」って言った。
「仕事がんばれよ」って言ってくれた。

泣けてきた
心の底から人に「ありがとう」って思った。
そいつは今でも親友です。

 

 http://okip.jp/step/IIVc62z6/?p=1271

24歳の高杉晋作が、日本・植民地化の入り口を閉めた

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HKの大河ドラマ「花燃ゆ」、最近、今ひとつ積極的に観てませんでしたが、
昨日は、高杉晋作連合国側との交渉に臨む場面だったので観ました。

イギリスとの戦争に敗れた長州藩は、
講和大使として24歳の高杉晋作を選びました。

松陰先生の薫陶を受けた秀逸な塾生、
高杉晋作は家柄だけで重責を任されたわけではありませんでした。

誇り高い高杉に長州の矜持を示して欲しかったのかもしれません。

交渉の場に現れたイギリスのクーパー提督は、
山口県の南端にある「彦島」を租借したいと言いました。

クーパー提督は、英・仏・米・蘭の連合国側の代表でもあり、
数多くの条件を提示していました。

晋作は、そのほぼ全ての条件をのみますが、
彦島の租借」については、頑として要求にノーを突きつけました。

この交渉の席では、後の総理大臣の伊藤博文が通訳をしており、
そのときの高杉晋作の豪胆ぶりや、先読みの深さについて感服しています。

高杉晋作が、ほぼ全ての条件をのみながらも、
彦島の租借」についてのみ、絶対に譲歩しなかったのには、
ちゃんとした理由があります。

晋作が、難しい交渉で相手の要求を取り下げさせた、

 

島の租借」を提示された高杉晋作

クーパー提督に対し、烈火の如く怒りました。

というのも、晋作はその2年前に上海で、
西洋の租借地の様子を見ていたからです。

「犬と中国人、入るべからず」と書かれた看板を見て、
このままだと、日本もいずれこうなってしまうと
危機感を募らせていたのです。

晋作は、場合によっては相手を斬り、
自分も自害するほどの覚悟で、交渉に臨んでいたといいます。

晋作の気迫に圧されたクーパー提督は、彦島の租借をあきらめましたが、
もし、このとき、高杉晋作が「ノー」を突き付けなければ、
今日の日本の近代化は無かったとまで言われています。

皆と仲良くする「和」を大切にする私たちですが、
大切なものを守るためには、「ノー」の姿勢を貫くことも必要ですね。

 

 

松居一代さん、ジェットコースターのように…

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レントの松居一代さんは、ジェットコースターのように
起伏の激しい人生を生きてきました。

その昔は、11PMの大阪で、カバーガールとして
藤本義一さんと並んで登場してました。

松居さんの最初の結婚は29歳の時、当時はバブルに差しかかる頃でした。

DCブランドの経営者との結婚で、いわゆる玉の輿結婚と呼ばれ、
周囲の羨望を集めました。

結婚して3年目には、待望の長男に恵まれました。

だけど、ここからが(壮絶な)ドラマの幕開けでした。

信頼していた夫に愛人がいるという事実が判明し、
松居さんは苦しみます。

どうしようもない気持を抱えて、夫と愛人の密会中のホテルにまで、
乗り込んだこともありました。

でもすぐに離婚の決意をしなかったのには、理由がありました。

長男の隆一君がひどいアトピーで苦しんでおり、
母親として、自分の我慢を優先させたのでした。

それでも、夫の浮気相手は、一人や二人じゃなく、
束の数ほどいることが分かり、
これはもう修復不可能と結論付けた松居さん、
離婚に踏み切りました。

アトピーの息子とともに再出発の松居さんです。

男性的にさっぱりしたところのある松居さんだから、
憂いよりも、すっきり感の方が強かったかもしれません。

しかし別れた夫からの災厄は、まだ追いかけてきました。

バブルが崩壊し、元夫の事業も不振を極めていました。

松居さんは、いつの間にか身に覚えのない多額の借金(1億7,500万円)の
連帯保証人にされていたのです。

普通なら、もうここで倒れてしまいそうなところですが、
松居さんは、ここで音を上げることなく、
自力の戦いを始めます。

女優業に復帰し、生計を立てつつ、莫大な借金を返済し、
息子の育児と治療にも手を抜かない、そんな松居さんでした。

ただ、この頃の無理が重なり、ストレスを蓄積させたせいでしょうか、
松居さんは「顔面神経痛」を引き起こしてしまいます。

それも舌がマヒして動かないほどの、重度の症状だったのです。

もはや女優業引退の危機にさらされました。

ここでも、松居さんは挫けず、東洋医学・針治療に助けを受け、
病気を克服し、女優業へ復帰します。

やがて、松居さんは、俳優の船越英一郎さんと出会い、
再婚します。

船越さんは、この結婚について、父船越英二さんからの猛反対を受けます。

二人の結婚式にも船越両親は出席しませんでした。

一人息子でありながら、英一郎さんは、相続放棄するほどまでに、
背反することになってしまいました。

出来るならば、両者円満な結婚が望ましいのですが、
こればかりは、家それぞれに色んな事情があります。

良し悪しだけで言えないことがあります。

ここで、船越英一郎さんの松居一代さんへの愛情を、
よく表わすお話があります。

息子の隆一くんとの信頼関係をきちんと築くまで、
船越さんは、時間をかけて、松居さん母子との付き合いを大切にしました。

「すぐには父親になれないかもしれないけれど、
 友達にならなれる」

そう言ってよくふたりでキャッチボールをしたり、
いろいろなところに出かけたりしました。

そんな時間の積み重ねにより、やがて、
隆一くんは船越さんの不在を寂しがるような関係になりました。

いよいよ結婚の機は熟したと判断し、
正式に婚姻届けを出し、晴れて夫婦となる日が来ました。

婚姻届けを役所に提出し、
二人は、小学校から帰ってくる息子、隆一君を待ちました。

夫婦になったことの報告を、
まず隆一君に真っ先にしたいと思ったのです。

小学校から帰ってきた隆一君です。

その隆一くんの玄関での第一声に、
ふたりは泣かされてしまいました

一君は、玄関で叫びました。

「ただいま、”船越”隆一が帰って来ました!!」

この第一声にふたりは仰天すると同時に、
思わず涙をこらえきれなくなったそうです。

隆一君の気持を何よりも尊重していただけに、
お二人にとって、何と嬉しい言葉だったことでしょう。

また、こんな話があります。

松居さんが、あるテレビ番組の占いコーナーで、
著名な占い師から、名前を変えた方がよいと言われたことがありました。

「一」代ではなく「和代」にした方が運勢が変わるとのことでした。

松居さんは即座に「いえ、このままでいいんです」
と答えました。

その理由は、こういうことだったのです。

一代さんの「一」は、
隆一君の「一」、英一郎さんの「一」、
こんなに大切な「一」を変えられるはずがない松居さんでした。

現在、いろんな活躍の場を持つ松居さんです。

掃除のスペシャリストとして
マツイ棒」を発明したのも有名です。

掃除で、あれほど徹底的なスペシャリティを
発揮できるようになったのにも理由があります。

実は、アトピーで苦しんだ隆一君の環境を守るために、
あれこれ部屋まわりを清潔に整えることに一生懸命だったのですね。

松居さんは、こんなことを称して、自らを
「転んでもただでは起きない」と言っています。

確かに、ジェットコースターのような松居さんの軌跡ですが、
降りるときの勢いすら、次に駆け上がる足がかりに出来る
松居さんの強さがしのばれます。

参考本:芸能界「心に残るいい話」東海林のり子:二見書房より